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この記事は、前回のこの記事のつづきです。
はい。
前回は、タイトルとは逆の「0か1かで考える」ことのメリットを実体験を基に書きました。
今回は、いよいよタイトル通り、「0か1かで考えない」ことにより、より前に進むことができたことについて私の体験談を書きたいと思います。
…とそこで終わると思っていたら、書いていて最後に本質は別のところにあると気づいてしまいそれについても書きました。
ともかく、いきます。
0.375という選択をして満足した体験談
振り子
私がおよそ1年前に会社を辞めた時、もう会社で雇われて働くのはこりごりだと思いました。
当時は結婚していて元妻が働いていたので、私は主夫という役割を担うことになりました。
当時は、会社で働くことが「1」、会社で働かないことが「0」、そう考えていました。
それまで会社で散々過重労働をしてきたので、このように考えてしまうのも無理はありませんでした。
振り子は、一方に持って行けば持って行くほどその逆にも大きく振れます。
会社で長時間働くという方向に大きく振り子が振られていた私は、その拘束から解き放たれると、その逆の全く働かない方向に大きく振れるのはある意味自然でした。
しかし、時が経てば空気の抵抗などの要因により振り子の振れ幅は自然と小さくなります。
つまり、時と外部要因により振れ幅が小さくなります。
「楽しく生きる」ことと「会社で働くこと」の両立を模索
私の場合は、会社を辞めて自身の人生の環境を変えて時を重ねることで、「自分の人生は自分で決められる」というある意味当然の事実に気づきました。
そして「楽しく生きよう」と思うようになりました。
その後、離婚という環境の変化(配偶者の収入に頼ることができなくなるという外部要因の変化)がありました。
大きな収入源がなくなるので、新たな収入源を確保しなければ、いくら節約をしてもいずれ貯金が底をつきます。
そこで徐々に「楽しく生きる」ことと「収入源を確保する」ことが両立しないか考え始めました。
株の勉強をきちんとし始めたのはこの頃だった気がします。
また、個人事業主として少しでもお金を稼ごうと考え始めたのもこの頃だった気がします。
ただ、株は前年末比マイナスの状態でしたし、個人事業主として稼いでいた(ブログ含む)のも微々たる金額でした。
それらの収入を増やす努力・勉強と並行しながら第三の収入源を模索することとなりました。
そこで改めて「楽しく生きる」ことと「会社で働いて稼ぐこと」の2つが両立しないか、その道をなんとなく頭のどこかで考え続けていた気がします。
そしてふと思い至りました。
私は確かに会社で働くことは割と嫌だけど、その中でもとりわけ嫌なのが「過大な責任」と「長時間会社に縛られること」と「険悪な人間関係」なのではないかと。
この「過大な責任」と「長時間会社に縛られること」という要素を削減ないし縮小したうえで、自己の適性に合った仕事を選択できれば割と楽しく仕事ができる確率が高まるのではないかと思いました。
「過大な責任」がない仕事は何か考えました。
バイトだと思いました。
「長時間会社に縛られること」がない仕事は何か。
残業のない短時間の仕事だと思いました。
そこで、短時間バイトの中で自己の適正に合った仕事を探すことにしました。
尚、「険悪な人間関係」については、これを気にするあまり、当初知人のところで働くことも検討しました。
しかし、そもそもその知人の仕事は自身の適正に合っていないという致命的な問題があり、断念しました。
そこで「険悪な人間関係」については、ネットの口コミなどをざっと調べたりはしましたが、情報はないに等しく、目をつぶりました。
最悪、どうしても嫌な奴がいれば、所詮バイトなのだから辞めてしまえばいいと思いました。
また、どうせ短時間しか働かないのだから、会社に拘束される時間は短いわけなので過度に人間関係を恐れる必要もないとも思いました。
ちなみに、第三の収入源を確保する目的の割には、「時給〇円以上の仕事」というような探し方はしませんでした。
それは、第三の収入源は「いかに稼ぐか」よりも「いかに楽しみながら(苦痛でなく)安定的で確実な収入源を確保できるか」ということの方が重要だったからです。
稼ぐためにがんばるのは株+自営の仕事の方です(現状稼げてませんがw)。
ともかく、このような考えで短時間バイトの仕事を探し、無事働けることとなりました。
0でも1でもなく、0.375
現状、人間関係良好、3時間/日×5日/週(残業なし)、過度な責任なし(当然自分の仕事に対する最低限の責任はあるが)、自己の適正に合っていてあっという間に時間が過ぎる、という感じで楽しく働けています。
前の会社を辞めて約1年が経過し、もう会社で働くのはこりごりだと思っていた人間が、今会社で働いています。
会社で働くことを「1」、会社で働かないことを「0」と考えていたら、今は「1」の状態です。
しかし、時の経過と外部環境の変化により、私は会社で働くことが「1」なのではなく、会社で過大な責任を抱えながら長時間働くことが「1」なのだと捉え直しました。
話を単純化するため、時間だけに着目し、その時間についても一般的な定時の時間で考え直してみます。
会社で8時間/日×5日/週=40時間/週働くことを「1」と定義し、会社で働かないことを「0」と定義します。
そのように「0か1か」を捉えなおすと、会社で3時間/日×5日/週=15時間/週働くことは、15÷40=「0.375」と考えることができます。
0でも1でもありません。
しかし、私は「0.375」という選択をすることで、また一歩前に進むことができました。
1年前の私には「0か1か」の選択しか考えられなかったので、「0.375」で満足している今の状況は考えもつきませんでした。
私の場合は時の経過と外部環境の変化により、ある意味偶然このような結果に至りました。
「0か1か」選択肢はそれだけではないという気づきは、私にとって大きな学びとなり、さらに楽しい生き方を実現することとなりました。
半端な知識でヘーゲルの弁証法的に表現してみる
半端な知識でヘーゲルの弁証法的に上述のことを表現してみます。
【正(テーゼ,0)】
会社で働きたくない(会社で働くと楽しく生きられない)
↑↓
【反(アンチテーゼ,1)】
でも会社で働いて安定的な第三の収入源を確保しないと金なくて生活できない
↓
正(0)と反(1)の間で葛藤。楽しく生きつつ、会社で働いて安定的に稼ぐ道はないか模索。
↓
【止揚(アウフヘーベン)】
↓
【合(ジンテーゼ,0.375)】
短時間バイトで責任限定的に自己の適正に合った仕事をする。
考えたこと
1のアンチテーゼの方向に大きく振り子が振れっぱなしになっていた状態ならば、その後しばらく0のテーゼの方向に振り子が振れるのはある意味当然のことです。
しかし、様々な要因で0のテーゼに振られた振り子は、以前ほどの勢いはないにしろ、また1のアンチテーゼの方向に振れるのは自然なことです。
なぜなら、0のテーゼの方向に振れっぱなしだと1のアンチテーゼの問題にいずれぶち当たることが明白だからです。
ですから、振り子は0と1の問題が解決するまで振れ続けるのでしょう。
0と1の間で葛藤しているのは気持ちのよいものではありません。
しかし、環境変化が起こるなり、何かのきっかけがあるなりして、自身の葛藤が止揚(アウフヘーベン)する瞬間が訪れます。
そうなると、0と1の問題を1段上の視点から俯瞰した合(ジンテーゼ)という解決策が浮かんできます。
それを上記では、0.375と表現しました。
しかし、俯瞰という意味でとらえ直せば0と1の間の数字とはまた違う気がします。
そこで思うのは、0か1かで考えないということは、0と1の間で答えを出すという意味ではないということです。
私の場合でも、当初とその後では、1の定義が「会社で働くこと」→「会社で過大な責任を伴いながら長時間労働すること」と変質しました。
だから、「0か1かで考えない」ということの本質は、
「0が何か、1が何かということを自分の価値観を踏まえてよく考えて自分で定義し、どう解決するかを自由意志をもって決断する」
ということなのだと思います。
そういう意味では、前回の記事で「0か1か」で判断したように見える、前の会社を辞めたという行動は既に過去の経験などから葛藤はなくなっている状態でした。
つまり、0(前の会社を辞める)と1(前の会社にそのまま残る)との間では既に葛藤はありませんでした。
葛藤するような本質的な問題はもうこの0と1の間には残っていなかったわけです。
ところでこのことは、自分の価値観を踏まえて自由意志で決断したという意味では、短時間バイトをする決断をした今回の決断と同じです。
ここでふと思いました。
【正(テーゼ)】
0か1かで考えたほうがよい
↑↓
【反(アンチテーゼ)】
0か1かで考えないほうがよい
↓
ブログを書きながら何か本質的な問題はこの次元ではないと考える
↓
【止揚(アウフヘーベン)】
↓
【合(ジンテーゼ)】
0とか1とかがどうこうでなく、自分の価値観を踏まえて自分の責任において自分の自由意志で決断するのがよい
まとめ
結局いつもこのブログで書いているような結論に落ち着きました。
どうも書きながら考える性質なので、当初漠然と考えていた結論(0か1かで考えない方がよいこともある)とは違う結論(まぁそれも含んでいるといえば含んでいますが)になってしまいました。
おわり
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価値観。自由意志。決断。やはりこれが私の中で鉄板のキーワードだな。