『幸福の哲学』(岸見一郎)を読んだ感想②:人間には自由意志がある

 この記事は前回のこの記事のつづきです。

 前回、この本で引用したい箇所を以下の4つに分類しました。

 ①人生の意味、生き方について(P22,23,26)

 ②自由意志と責任について(P96,101,112,113,193,194)

 ③課題の分離と自立について(P142,143)

 ④幸福について(P7,53,56,64,65,192)

 前回は、①についての感想を書きました。

 今回は、②について感想を書きます。

 それではいきます。

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感想

②自由意志と責任について(P96,101,112,113,193,194)

本章では、人間には自由意志があることを明らかにする。

(中略)

アドラーは次のように説明している。

いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショックーいわゆるトラウマーに苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。そこで特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、おそらく何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが、状況に与える意味によって自らを決定するのである」(『人生の意味の心理学』)

(『幸福の哲学』P96,101より引用。太字下線による強調は引用者による)

 人間には自由意志があります。

 だから自分の人生は自分の責任で自分で決められます。

 私はこの考え方が好きです。

 でも、もともとこのような考え方をもっていたわけではありません。

 サラリーマンを辞めて、「あ、自分の人生は自分で決められるんだ」とある時ふと気づいたのです。

 自由意志という言葉は、たぶん過去にも何度か聞いたことがあったと思うのですが、最近ようやくこの言葉の意味が「わかった」という感じです。

 で、上記のアドラーの言葉は、人間には自由意志があるから外的要因に関係なく、自分の人生を決められると言っているのですね。

 トラウマ体験というと、一般的にはそれを乗り越えるのはなかなか難しいと考えられています。

 フロイトの精神分析学的な考え方であれば、非常につらい体験をするとそれを意識するのが苦痛なので、無意識下に抑圧して見ないようになると考えます。

 そして、その抑圧された感情を意識化しない限り、そのつらい体験を乗り越えられず、精神に異常をきたすと考えます。

 つまり、フロイトの考え方は、そのつらい体験がその後の行動の原因となると考える決定論的考え方です。

 しかし、アドラーはこれに異を唱えます。

 つらい体験がその後の行動の原因となるわけではないと考えます。

 なぜなら人間には自由意志があるからです。

 だからアドラーは決定論ではなく、目的論的に「経験の中から自分の目的に適うものを見つけ出す」と考えたのでした。

 つまり、「〇〇のつらい体験をしたから私はこのような行動しかとれない」と自分で選択していると考えたわけです。

 これは、なかなかつらい体験をした人にとっては手厳しい考え方です。

 この辺については、受けた体験の程度によってそう単純には考えられないというのが私の考え方です。

 ただ、後述しますが、これは患者に幸せに生きてもらうための方便だと思います。

 また、救いがあるのは、やはりアドラー的な目的論的考え方だと思います。

 決定論の場合、自分ではどうにもできない、ただただ外的要因に翻弄されるようなイメージがあるからです。

 目的論的に考えれば、自分の自由意志で今を積み重ねて未来を創っていけるという希望があります。

 だから、ここでのアドラーの言葉は手厳しいですが、自由意志があるという考え方には救いがあります。

ギリシアでは、各人にそれぞれの運命を導くダイモーン(霊)がついていると考えられていた(プラトン『パイドン』)。だがプラトンは、当時の通念とは違って、運命は与えられるものではなく、各人が自分自身で選び取るものであることを強調している。

「責任は選ぶ者にある。神にはいかなる責任もない」(プラトン『国家』)

(『幸福の哲学』P112より引用。太字下線による強調は引用者による)

 この引用箇所からは、人の運命について古代ギリシアの哲学者プラトンも決定論ではなく、目的論的に捉えていることがわかります。

 そして自分で選ぶので、その選んだ責任は他の誰でもなく選んだ自分自身にあることを述べています。

 つまり、自由意志には責任を伴うという考えが示されています。

 これは逆に言えば、自分で責任を取れる限り、自由に自分の意志で生きることができることを示しています。

 本章では人には自由意志があることを見てきた。このことを受け入れるには勇気がいる。人は、責任がすべて自分にあるとは思いたくないからだ。

 しかし、人は過去に経験した出来事や、まわりから影響を受けるだけの存在(reactor)ではない。自由意志で自分の人生を決めていくことができる存在(actor)である。間違うことがあっても自分の人生を選び決められると考えることで、人間の尊厳を取り戻すことができるのだ。

(『幸福の哲学』P113より引用。太字下線による強調は引用者による)

 「まわりから影響を受けるだけの存在」という言葉を読んで、そんな存在だったらなんだか虚しいなと思いました。

 やはり自由意志があって自分で自分の人生を決められると考えた方が、気持ちも明るくなります。

 そして実際にそのように生きることはできます。

 ただ、日本の学校とか会社では、間違ってもよいから自分の責任で行動するということがしにくい気がします。

 テストも出世も減点主義で、ミスが少ない人が得をする。

 その結果、自分で責任を取って果敢に行動するということがしにくい気がします。

 そして自分の自由意志で行動する人よりも、なんとなくの空気が読める人の方が学校や会社では生きやすい気もします。

 

 小室直樹先生は、空気を最優先にする日本人独特の行動原理を宗教的なものとして「日本教」と表現しました。

 そんな日本教の信仰者が多い状況では、「人間には自由意志がある」ということを信じられない人も多いのかもしれません。

 幸い私は、会社からドロップアウトして日本教から少し距離を置くことができました。

 そして自分にある自由意志の存在をはっきりと認識し、自分の人生を自分で決め始めました。

 間違うことはあるでしょうが、その間違いを恐れる気持ちはほとんどありません。

 アドラーは困難について、次のようにいっている。

「困難は克服できない障害ではなく、それに立ち向かい征服する課題である」(『個人心理学講義』)

(中略)

 アドラーは「誰でも何でも成し遂げることができる」といっている(前掲書)。これに対しては、遺伝のことなどを考えれば、何でも成し遂げることなどできないという批判がされてきた。

 しかし、アドラーは、才能や遺伝などを持ち出すことで、自分はできないという思い込みが生涯にわたる固定観念になることに警鐘を鳴らしたのである。そうなれば、どんなことでも、課題に取り組まないことの理由にすることができるからだ。

 アドラーは、古代ローマの詩人であるウェルギリウスの「できると思うがゆえにできる」という言葉を引いている(『子どもの教育』)。アドラーは人間の能力は無限だというようなことをいおうとしてウェルギリウスを引いているのではない。自分を過小評価することの危険を説いているのである。自分を過小評価すると「もう追いつくことはできない」と信じてしまうことになる。追いつくことはできないことを正当化するために自分を過小評価するというのが本当である。

(『幸福の哲学』P193~194より引用。太字下線による強調は引用者による)

 アドラーは思い込みが固定観念になってそれが自身の過小評価につながることの弊害を述べています。

 こうなると自由意志を発揮できず、自分の人生を自分で決めて生きることができません。

 アドラーが外的要因による決定論を認めなかったのは、「できない」、「無理」という固定観念を打ち破って自由意志を取り戻して目的論的に生きてほしいと思っていたのだろうと解釈しました。

 そのように生きた方がいかに幸せか、ということを伝えたかったのではないかと思いました。

 そのための方便として、「何でも成し遂げることができる」とか「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない」などの、その言葉だけを切り取られたら誤解を生みかねないことをあえて言ったのだと思いました。

 私は、この記事で引用した箇所を読むことで、より自由意志をもって生きていきたい、決定論的に考えるよりも目的論的に考えた方が楽しく生きられるという思いを強くしました。

 ②については以上です。

 ③以降は別記事にします。

 つづく

↓この本の感想を書きました。

読んでいただき、ありがとうございました。

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