この記事は、前回のこの記事のつづきです。
「生きることは、それが自分にとってよいのであればよい」
ということを1回目の記事で書きました。
そして、この中で「自分にとって」と「よい」という言葉がポイントだとも書きました。
この考えのもと、前回までに「自分にとって」の部分を「自分以外にとって」に置き換えた例を大きく分けて2つ見てきました。
今回の記事では、「自分以外にとって」ではなぜダメだと考えるのかについて、「自分にとって」という観点と絡めて書いていきます。
生きることはよいことか
1.「自分にとって」について
1-3.「自分以外にとって」ではなぜダメだと考えるのか
まず、大前提として、便宜的に「ダメ」と書いていますが、別に「自分以外にとって」という考えで生きてもいいです。
どのような考えで生きるかは皆さんの自由です。
あくまでも「わたしはダメだと考えている」に過ぎず、別に「今すぐ考えを改めるんだ!」などと強制するつもりは全くありません。
じゃあなぜ書くのかというと、ただただ書きたいので書いています。
そして、チラシの裏に書くよりもブログに書く方が後々発見もあるのでブログに書いています。
はい。
では私の考えを書いていきます。
いきなり結論から書きます。
「生きるのは、それが自分以外にとってよいのであればよい」
ではダメで、
「生きるのは、それが自分にとってよいのであればよい」
とした理由です。
それは、
「自分以外にとって」だと、それが「自分にとって」とずれていればずれているほど苦しくなるからです。
前回までにあげた2つの例を基に見ていきます。
1-3-1.「自分の見知らぬ誰か(何か)にとって」がダメな理由
1回目の記事では、コンビニでお弁当を買うという例をあげました。
コンビニでお弁当を買えば、自分の見知らぬコンビニのオーナーやそのおかずを作っている人にとってはよいと書きました。
この時に、
「コンビニで弁当を買うことは、見知らぬ誰かにとってよいことなんだなぁ」
と考えると気持ちが豊かになると書きました。
それは、その通りです。
だから、そういう何気ない小さな行為の意味に思いをはせて生きるというのは、忘れがちだけど生きるうえでプラスになりそうです。
ただ、これが生きる物凄いモチベーションになるかどうかは別です。
それよりも、積極的な「自分にとって」の行為のほうが生きるモチベーションになる気がします。
例えば、
「〇〇のコンビニのから揚げ弁当が好きだから買う。食ったらやっぱりうまい。うまいもの食えて幸せ。生きててよかった」
の方が、生きるモチベーションになる気がします。
または、
「〇〇のコンビニのから揚げ弁当が好きだけどダイエット中なので買わなかった。代わりにカロリーの低いサラダチキンを買った。欲望に負けなかった俺凄い。よく生きている」
の方が、より主体的によく生きていると思います。
まぁこの2つの例は割とどうでもいいです(じゃあ書くなよw)。
肝心なのは、「自分にとって」と「見知らぬ誰か(何か)にとって」の間にずれがある場合です。
例えば、
「私はコンビニが好きではない。むしろ憎んでいる。なのでコンビニでは買い物をしない」
という考えの人がいるとします。
「でもコンビニに関わる私の見知らぬ人にとって、コンビニで買い物をすることがよいことなのでやはりコンビニで買い物しよう!」
なんて普通はならないですよね。
つまり、この例を単純化していうと、
「自分にとって」悪いこと(自分の価値観に反すること)を
「自分の見知らぬ人にとって」よいという理由で
選択することは普通ないように思えますよね。
ここで、
「私はコンビニを憎んでいるけど、コンビニに関わる見知らぬ人が喜ぶから、コンビニで弁当を買うのがよい」
と判断してその通り生きていたら苦しいですよね。
この判断で生きることは苦しい状態=よいとは言えない状態な気がします。
まぁ普通こんなことしませんが。
でも、次の例はどうでしょうか。
サラリーマンが嫌で嫌でしょうがないDさんがいます。
Dさんは「サラリーマンに向いていない。だから会社を辞めたい」と思っているとします。
でも世間=見知らぬ何かは「社会人としては、サラリーマンとして働くのが正解」という常識を提示します。
そこでDさんは、
「会社辞めたい。でも世間ではサラリーマンとして働くのが社会人として常識=世間にとってよい、とされているのでサラリーマンとして働くのがよい」
と判断しました。
この例はけっこうありそうな気がします。
何を隠そう私自身が十数年そうやって生きてきました。
でもこれは苦しいです。
なぜなら明らかに「自分にとって」と「見知らぬ誰か(何か)=世間」の価値観にずれがあるからです。
そしてずれがあるにも関わらず、「自分にとって」の価値観を現実に合わせず、「見知らぬ誰か(何か)=世間」の価値観を現実に合わせているからです。
これが苦しい原因です。
なので、生きることがよい状態ではなく、苦しい状態になってしまっています。
解決方法は2つあります。
1つ目は、「自分にとって」の価値観を現実に合わせることです。
つまり、会社を辞めることです。
まぁ諸事情で難しいのが現実なのでしょうが、私の場合は諸事情を一切無視して辞めてしまいました。
辞めたら色々もったいないとかそういう次元の話でなく、もう適応無理と判断して辞めました。
医者に診断書を書いてもらえば有給休暇以外にもさらに1年半は会社の制度で休めました。
仮に休んだとしても健保の制度で給料の何割かも保障されます。
私自身が人事の担当でしたからその辺はもう十分よくわかっていました。
しかし、そこで休むという判断は私の人生において「自分にとって」よい判断だとは全く思えなかったので、もう全部断りました。
断った方が自分の今後の人生にとってよいと判断しました。
そのほうがきれいさっぱりすっきりすると判断しました。
その判断に関しては今でも一切後悔していません。
なぜならその制度を利用して休んでいたら、1年半という長い貴重な時間を、精神的に会社に縛られ、意識しながら生きていくことになっていたでしょうから。
まぁでも9割以上の人はこんな滅茶苦茶な判断はしないでしょう。
人事の担当をしていて、休職の制度が使えるのにあえて使わずに辞めていったような人はあまり記憶にありません。
逆に繰り返し休む人はいましたが。
普通は使える制度は使い倒すのではないかと思います。
そして、金銭面その他諸々を考慮して「自分にとって」会社の制度を利用して休むという判断がよいと思うのであれば、その判断が正解です。
だから会社の制度を使わずにすぐ辞めろ!なんて言うつもりは全くありません。
それこそ「自分にとって」どういう判断がよいのかは自分で決めればよいのです。
辞めるべきかどうか迷うのだったら会社の制度を利用して休んでゆっくり考えればよいのだと思います。
ともかく、私の場合は、「自分にとって」よい判断だったので、会社を辞めたらすっかり元気になってしまいました。
だから生きるのは楽=よい状態になりました。
「そんなことができれば苦労はいらない」とか言われてしまうかもしれませんが、「もう無理」って段階になれば誰でもそうなるのではないかと思います。
逆に言うと、苦しいかもしれないけど「もう無理」という状態まで行っていないのでサラリーマンを続けられているのでしょう。
なかには「もう無理」となって自殺してしまう人もいます。
それは、生きることが「自分にとって」よくないとの判断でのことなのでしょう。
そんな状態では、判断能力が鈍っているかもしれませんが、鈍っているなりにそう判断したのでしょう。
そういう判断で人が亡くなるという現象は「草木無量にとっては」とても悲しいことです。
いずれにせよ、「自分にとって」という方向に現実を合わせるのが、生きる苦しさを解消する1つ目の方法です。
2つ目の解決方法は、サラリーマンとして働きながら仕事に「自分にとって」を見い出すことです。
私は「もう無理」となるまではこの方法でサラリーマンを続けていました。
私の場合は、仕事に楽しさを見い出して、がんばっていました。
これは、この記事で書いたS先生の考え方「何事も楽しむ」の実践でした。
この考え方を身につけてからはだいぶ仕事を楽しんでできるようになりました。
もっとも、もう一つのS先生の考え方「判断は自分の正直な感覚に従う」も同時に重視していたので、その結果「もう無理」という自分の感覚に従って会社を辞めることになるわけですが。
というわけで、より根本的な解決方法は1つ目の「自分にとって」の価値観に現実を合わせる方法です。
そして、そうは言っても・・・という場合は会社の中で「自分にとって」を見い出すことです。
いずれにせよ「自分にとって」からずれた「見知らぬ誰か(何か)にとって」に価値観を寄せるのは苦しくなる原因となるでしょう。
以上、「自分の見知らぬ誰か(何か)にとって」がダメ=苦しくなる理由を書きました。
1-3-2.「自分の知っている誰か(何か)にとって」がダメな理由
ここまでで既に3,500字を超えてしまったのでつづきは別記事にして明日以降に投稿します。
蛇足
気付いたら今日ははりきって珍しく3記事(計7,000字超)も書いて投稿してしまいました。
それだけ集中して書ける好きなテーマということかもしれません。
駐車場とかラーメンの記事に比べると、こういった記事はあまり読まれないのですが、ただただ書きたいので書いている感じです。
つづく↓
↓この本の感想を書きました
posted with カエレバ
池田 晶子 毎日新聞社 2014-11-26
読んでいただきありがとうございました。
これ↓をクリックしていただけると更新の励みになります。