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『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち 飲茶著』を読んだ感想⑥ 自己を鑑賞するという意識の大切さ

 この記事は続きもので以下が最初の記事です。未読の方はよろしければ先にどうぞ。

『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち 飲茶著』を読んだ感想その1。どんな本かをごく簡単に説明。

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前回のおさらい

 釈迦は神ではない(仏だけど)。

 むしろトンデモない人間である。

 すごい人だけど子どもに「障害」なんて名前をつけてしまう変な人でもある。

 でも私は好き。

 そんな釈迦は古代インド哲学の流れのなかでその影響を受けて出家した。

苦行ブーム

 ④の記事で、「「私」は何事にも動揺されない、動揺するのは勘違い」ということを映画と観客の例で説明しました。

 とは言っても、実際に殴られたら痛いし、それを「体が痛いだけで「私」が痛いわけではない」とか考えたところで、

 「いやいや実際痛くて耐えられないんだけど」

 という現実的な問題があります。

 というわけで昔のインドの修行者の中で苦行がブームになりました。

 何日も食物を断ったり、水の中で長いこと息を止めたり、何日も寝なかったり、その他もろもろの苦行がありました。

 なぜ苦行がブームになったのか。

 それはものすごく苦しいことに耐えられたら、そんな過酷な状況でも「「私」は動揺しない」ということの証明になるからです。

 釈迦もこの流れの影響を受けていますから、出家してから6年もの間ものすごい苦行をおこないます。

 その結果、こんな風になってしまいました。

f:id:kusakimuryou:20161106214903j:plain

(P85より引用)

 骨に皮がついているだけの状態。

 そしてこんな体になるまでがんばったのに悟れませんでした。

釈迦の気づき ~そして中道へ~

 釈迦は気づきます。

 以下引用。

(引用開始)

「苦行に意味なんかない。いやむしろ、苦行という行為自体が、悟りを阻害していたのだ」

(引用終了)

(P84より引用)

 

 どういうことか。

 そもそも何事にも動揺しない「私」を証明するために「苦行」というツールがあったのに、修行者はいつしか「苦行」そのものを目的化するようになってしまった。

 つまりはどんだけすごい苦行をしているかということに目が向くようになってしまったということである。

 苦行自慢である。

 ものすごい苦行に耐えている映画を観ている観客が「こんなに苦行に耐えられる私ってすごい!」と勘違いしている状況である。

 それに対し、釈迦の気づき(飲茶先生の解説)はこうだ。

 以下引用。

(引用開始)

 痛い目にあって、泣き叫んだり、「やめてやめて」と懇願したっていいのである。それらは身体が勝手にやっていることだからだ。

 身体は痛みがあれば、そこから逃れようとするだろう。それがそいつの仕事だ。身体は空腹になったら食事を求めるだろう。それがそいつの仕事だ。

 もし真に「私は身体ではない」と理解しているとしたら、空腹に耐えることが、ヤージュナヴァルキヤの境地とまったく無関係であることがわかるはずである。身体が苦痛に耐えてぐっと我慢しようと、身体が苦痛に耐えられず泣き叫ぼうと、どっちにしろ『私』は、ただそれを見守る鑑賞者に過ぎない。身体という物理的な機械がどう反応しようと、それが『私』に影響を与えることはないのである(それなのに「空腹を我慢できたから」なんてことを到達のバロメーターにする人がいたら、それは逆の意味で、「身体と『私』を同化させてしまっている」ということになる)。

 結論として、ヤージュナヴァルキヤの境地に到達することと、苦行(極端な状態)の間には、何の因果関係もない。それどころか、むしろ、逆効果。であるのだから、「中道(極端ではない状態)」こそが一番悟りを得るのに適切な状態だと言えるのである。

(引用終了)

(P89より引用。一部文字の色付けは引用者による)

 「鑑賞者」という言葉に色を付けました。

 まさに映画の観客ですね。

 そして記事④から疑問に思っていた「体が痛い問題」についての答えは「痛い!痛い!」でOK。

 「痛い!痛い!」って言って、「こんなのを痛がる私はダメだ」とか「こんな痛みに耐えられる私スゲー」と痛みという映画と「私」を同化してしまうのはNGと理解しました。

 ただただ鑑賞者として「痛い!私は痛みを感じている!ものすごく痛い!」とどこか客観的に痛みを観察している「私」を意識することがポイントと理解しました。

 難しいけど。

この辺を読んで思い出したこと

 「観察」で思い出しましたが、以前私はヴィパッサナー瞑想というのにはまったことがあります。

 仏教の考え方を基にしたものです。

 ざっくり言うと一挙手一投足を意識的に行い、観察するみたいなことです。

 例えば歩くことを例にすると、次のように心の中で足の動きを実況中継(ラべリング)して意識します。

「右足が地面から離れた」「右足をあげた」「右足を下げた」「右足が地面に着いた」「左足が地面から離れた」「左足をあげた」「左足を下げた」「左足が地面に着いた」・・・みたいな。

 まさに体の動きを

 「鑑賞」

 するわけです。

 急いでいる時は「右足」「左足」「右足」「左足」と単純にラべリングして心の中で実況します。

 すると不思議と心が落ち着いてくるような効果がありました。

 昔働いていた頃は朝会社に行くのが嫌で嫌で通勤途中で「会社に着いたら昨日終わらなかったあれもやらなくちゃいけないし、今日までにあれが締切だし、〇〇時から〇〇さんが来るけど〇〇時から会議だから早めに切り上げなくちゃいけないなぁ、そういえばあの資料もできてない、あぁめんどくせ~会社に雷落ちて燃えてしまえ!

 とこんな風に心中おだやかでない状態で精神的に疲れていたのですが、上記のヴィッパッサナー瞑想で体の動きを実況中継すると余計なことを考えず、今の体の動きに集中(鑑賞)し、その間は心が穏やかになったのを覚えています。

 あとは「「会社に行きたくない」と私は思った」とか「「締切間近だからやばい」と私は思った」、とか客観的に自分の頭に浮かんできたことをラべリングしたりもしました。

 一定の効果はあったと思います。

 それから食べる時に実況中継すると、「はしをとる」「はしで〇〇をつかむ」「はしを口に持っていく」「〇〇を口に入れる」「〇〇をかむ」「〇〇を味わう」「〇〇を飲み込む」みたいなラべリングをすることになるので、動作がゆっくりになり、味わって食べるようになるので少量でお腹がいっぱいになるのと、より食べ物の味を感じるような効果がありました。

 まぁめんどくさいからいつしか自然にやめてしまったのですが、これをやっていた時は食事の量も減っていました。

 そんなことを今思い出しました。

 自分自身を鑑賞者として観察することは心の落ち着きや行動の変容にもつながることを思い出しました。

 自分の行動の鑑賞者になることにはメリットがありそうです。

 次回につづく。

 つづき↓

『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち 飲茶著』を読んだ感想その7。当時としてはとんでもない主張である「無我」を説いた釈迦のすごさについて書いています。

読んでいただきありがとうございました。

合掌

↓この本について書きました。

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫 や 33-2)

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫 や 33-2)

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