『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち 飲茶著』を読んだ感想④ 全ての不幸は勘違い!?

この記事は続き物で以下が最初の記事です。未読の方はよろしければ先にどうぞ。

『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち 飲茶著』を読んだ感想①
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち 飲茶著』を読んだ感想その1。どんな本かをごく簡単に説明。

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まだあった!ヤージュナヴァルキヤとサルトルの主張の一致点

 以下引用。

(引用開始)

ヤージュナヴァルキヤは、『私』の性質についてこうも述べている。

「アートマンについては『に非ず、に非ず』としか言えない」

(引用終了)

(P54より引用)

 

 つまり「私は〇〇です」、「私は△△です」と言うことはできず、「私は〇〇でない」、「私は△△でない」と否定的な言葉でしか私という存在を言語表現できないということである。

 「無限遡行が起きてしまうので「私は〇〇です」と言い切ることはできない」と私なりに理解しました。

 実はこれについてもサルトルが著書『存在と無』で同じようなことを言っているそうです。

 既にその2,500年前にそこにたどり着いていたヤージュナヴァルキヤやはり恐るべし!

 ここまでこの記事含め4回に渡り長々と書いてきましたが、実は私が書きたかったのは次のことでした。

 やっとたどりついた。

「私は〇〇である」との思い込みがあらゆる不幸を生み出す原因?

 ここまでの内容で哲学的には「私は〇〇である」と言うことはできないということを書いてきました。

 しかし我々は日常「私は〇〇である」と考えたり、感じたりしていると思います。

 ヤージュナヴァルキヤの哲学的にはこれは勘違いということになります。

 この勘違いがあらゆる不幸を生み出す原因だと古代インド哲学では考えているそうです。

 確かにインド哲学の影響を受けている釈迦の考え方(原始仏教の考え方)にも通じている感じがします。

 古代インドでは、この勘違いを説明する際に「踊り子」と「観客」の例えを使う伝統があるらしいです。

 この例えを現代風にわかりやすくするために飲茶先生は「映画」と「観客」に置き換えて説明してくれています。

 この説明が秀逸。

 この説明と後述するもう一つの説明で私は気づきを得ました。

 ここではまた味気なく結論のみ書きます。

 理由は前回の記事で説明した通りです。

 秀逸な説明はぜひこの本を読んでみてください。

 それではいきます。

 我々は映画を観ている時に主人公などの登場人物に感情移入することがあります。

 ただ所詮は「映画の中の人物」と「観客」の関係。

 「映画の中の人物」が物凄いことを成し遂げようが、ケガをしようが「観客」である「私」には無関係です。

 それを勘違いして「映画の中の人物」と「私」の区別がつかなくなり、つまりは勘違いして「私は物凄いことを成し遂げた」とか、「ケガが痛くてたまらない」とか言い出したらちょっと危ない人ですよね。

 でもその人が「これは映画の中での出来事だ!自分とは無関係だ」と気づくことができれば、その間違った思い込みは消えてなくなるわけです。

 で、我々が「私は〇〇です」と思い込んでいる様子は、上記映画と観客の例えのようなものだと言っているのです。

 飲茶さんはもう1つ例えを挙げてくれています。

 ヌイグルミの例えです。

 「(子どもは)ヌイグルミが汚れたり、腕が取れてしまっただけで、まるで自己を傷つけられたかのように、泣きわめく。(P60より引用)」

 映画と観客の例えでは「危ない奴だなぁ」くらいにしか思いませんでしたが、このヌイグルミの例えで私ははっと気づかされました。

 これは私にも当てはまるぞと。

改めて自己を振り返る

 例えば私の場合なかなか本が捨てられません。

 それは本が自分の価値を高める象徴のように意識的にも恐らく無意識的にも思っているからです。

 一方で服とか本以外のモノはほとんど抵抗なく捨てられます。

 このように自分にとって捨てられないモノというのはそれが私の価値を高めるものと(哲学的には)勘違いしているからなんだろうなと改めて思いました。

 また、この考え方を応用すると、自分の身に何が起ころうが「私」が傷つけられるのとは無関係です。

 よって、それによって「私」が動揺するのは変だということにもなります。

 このように一歩引いて達観したような境地で「私」という存在を考えることは日常で身の回りに何か起きた時に心を安定させるのに役立つかもと思いました。

 最後に前回の記事で引用したヤージュナヴァルキヤが妻に語った言葉を改めて引用します。

(引用開始)

「アートマンとは不滅のものであり、本性上破壊されないものである。

(中略)

アートマンについては『に非ず、に非ず』としか言えない。

それは捉えることができない。なぜなら捉えようがないからである。

それは破壊することができない。なぜなら破壊しようがないからである。

それは執着することができない。なぜなら執着しようがないからである。

それは束縛されることもなく、動揺することもなく、害されることもない。

ああ、どうやって認識するものを認識できるであろうか?

妻よ。不死というのは、こういうことなのである。

(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』)

(引用終了)

(P30より引用)

気づきはあったが残る疑問

 4回目の記事でやっと書きたかったことが書けました。

 自分にとってはそれほど腑に落ちたのです。

 でも・・・疑問は浮かびました。

 いくら「私」は何事にも動揺されない、動揺するのは勘違いと言ったって、実際に殴られたら痛いし、それを「体が痛いだけで「私」が痛いわけではない」とか考えたところで

「いやいや実際痛くて耐えられないんだけど」

 って話です。

 だから手術するときは麻酔するわけです。

 そういう現実的な問題があります。

 そんな疑問が浮かんでたら次の釈迦の項でその答えが用意されていました。

 かゆいところに手が届くとはこのことだな。

 いやぁ素晴らしい本です。

 というわけで次回へ続く。

 

 つづき↓

『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち 飲茶著』を読んだ感想⑤ 釈迦というトンデモない人間
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち 飲茶著』を読んだ感想その5。釈迦というものすごい変な人についてごく簡単に書いています。

読んでいただきありがとうございました。

合掌

↓この本について書きました。

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫 や 33-2)

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